長野県長野市内の寺院が宗派を超えて結集し、さまざまな活動を。善光寺で開催される「花まつり」など。

野生司香雪 作品集

大本山永平寺蔵

サールナート初転法輪寺壁画下絵

長野市仏教会ホームページ区切り線

1.降誕(ごうたん) 大下絵

マーヤー(摩耶(まや))夫人は出産のために故郷のコーリヤ国へ戻る途中、ルンビニ園で休息しました。

アショーカ(無憂(むゆう)樹)の枝に手を伸ばしたときに産気をもよおし、右脇腹からシッダールタ(悉達多(しっだった))太子が誕生されました。太子は、六道(天道(てんどう)・人道(にんどう)・阿修羅道(あしゅらどう)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・地獄道(じごくどう))を越えた一歩を表す『七歩』を歩いて天上天下に指をさし「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)亅と言いました。右にマーヤー夫人の妹のマハーパジャーパティ(摩訶波闍波提(まかはじゃはだい))。左にブラフマー神(梵天(ぼんてん))、その七歩の足跡から蓮の花が咲いたと言われています。

マーヤー夫人は、太子を生んで7日目に亡くなったため、太子は叔母のマハーパジャーパティに育てられました。

【香雪のことば】

蓮の池を前に無憂樹を背後にして夫人は右手を上げて立つ。誕生した太子は天地を指して大きな産声を挙げた。梵天、侍女は尊び仰いだ。背後の無憂樹については、大菩薩協会の要求は娑羅(シャラ)樹であるがこれには異説が多い。現存するインド古彫刻の降誕図に多くこの樹を見受けるからこの樹とした。夫人の姿勢は、グプタ王朝の石彫を、その他の風俗はアジャンタ石窟の壁画に倣(なら)う。左下方の侍女が腰を傾け頭髪を地に垂れ礼讃する姿はマドラス博物館のアマラバティ彫刻による。足跡を示す蓮の花の模様はサールナート博物館所蔵の欄楯(らんじゅん)(手すり)による。


2.静観(じょうかん) 大下絵

ある年の春、スッドーダナ(浄飯王(じょうぼん)王はシッダールタ太子を伴って『耕しの式』を行いました。

太子は農夫が耕す鋤の端に掘り返された虫を一羽の鳥がすぐに啄(ついば)むのを見て、「あわれ、生き物は互いに食(は)みあうよ」と言い、悲しみのあまり林に入って閻浮樹(えんぶじゅ)の下に座り、深い物思いに沈みました。そして、この世の無常について深く考えられました。その姿を見た父のスッドーダナ王と義母のマハーパジャーパティは、太子が将来出家することへの不安を増していきました。

【香雪のことば】

『大荘厳経(だいしょうごんきょう)』には、太子は釈迦族の者と遊びに来た時、農夫の勤労は苦しいことであると嘆いて慈悲心を起こし、私はこの苦悩から逃げられることを考えるべきであると。太子は閻浮樹下に結跏趺坐(けっかふっざ)していろいろな煩悩を離れようと初めて瞑想した。最初はこの説によって描いたが、大菩提協会側の要求により、農夫を浄飯王に変更した。このときの太子の年齢は南方諸典には9歳とあるが、『瑞応本起経(ずいおうほんききょう)』に14歳、『因果経(いんがきょう)』に17歳とあるので、その中間の15〜16歳に描いた。


3.四観(しかん)・告別(こくべつ) 大下絵

ある時太子は侍者を連れて城の東門から出て「老人」に、南門から出て「病人」に、さらに西門から出て「死人」に会い、世の「老病死」の無常を目の当たりにしました。次に北門から出たときに、世俗の悩み、憎しみ、苦しみを離れた「出家修行者」に会い心打たれ、ついに出家を決意しました。この出来事を四門出遊(しもんしゅつゆう)といいます。

太子は別れを告げようと妃の寝室へ。静かな夜、美しい宮殿、香(かぐわ)しい寝所。一方、口から涎(よだれ)を流し、眠りを貪(むさぼ)る舞姫たちの寝すがたに「一切がこの有様である」と嘆息しました。最愛の我が子ラーフラ(羅睺羅(らごら))を抱き最後の別れを惜しんでは妃が目覚め、我が出家を妨げるであろうと考えられ、静かに城を離れました。

【香雪のことば】

四観
「四門出遊(しもんしゅつゆう)」は単色にて描き、他の濃厚なる色彩との対照にした。

告別
寝台に夢を見る母子の背後に重厚な扉を配してかすかな明かり、太子は慈(いつく)しみ深く無心の愛児を凝視す。


4.出城(しゅつじょう)とスッドーダナ(浄飯(じょうぼん))王の寝殿 大下絵

太子はヤソーダラー(耶輸陀羅(やしゅだら))姫と愛児に密かに別れを告げ、宮殿を離れ愛馬カンタカにまたがり、カピラ城を馬丁(ばてい)のチャンナと共に出城しました。時に太子は29歳。蹄(ひづめ)の音で父王や妃が目覚めぬように、カンタカ、チャンナは空を飛んでいるかのように城を離れました。

夜半、太子の出城を知らぬ老大王は白髭を燈火に照らして深い夢の中にいました。

【香雪のことば】

城門を後にして、遠く雪山を望み、満月の下、金の鞍にまたがる白馬上の孤独な姿。白馬は鹿野園(ろくやおん)発掘の石彫による。カピラ城の大王の寝殿を前景に描き、その屋根を透視して寝台に眠る大王を描く。(大和絵の様式に)


5.村女(むらむすめ)の供養 大下絵

6年間におよぶ苦行が悟りの道ではないことを悟った太子は、尼蓮禅河(にれんぜんが)に沐浴してガジュマル樹の下で瞑想していました。するとある朝、セーナ村の村長の娘スジャータが牛の乳を搾り、乳粥(ちちがゆ)を作って、樹の神に捧げようと林に入ってきました。

そこに、気高く座る修行者シッダルタ太子を見て、乳粥を捧げ「尊い修行者様、私を憐れんで供養をお受け下さい」と伏して拝みました。

太子はこれを受け気力を奮い起こし、深い禅定(瞑想)に入りました。太子に従い苦行を共にした5人の比丘(びく)(=修行僧)は、供養を受けるその姿を見て「ゴータマは修行を止め堕落した」と蔑(さげす)み、太子を捨ててベナレスの鹿野園(ろくやおん)に立ち去りました。

【香雪のことば】

南方の仏伝には「この時太子は端然として樹下に座り、光明(こうみょう)を四辺に照らしていた。スジャータは修行者を樹神が下り供養を待つ者と思い、喜んで側に進み、恭しく粥を差し上げた」とある。「もはや太子は疲労困憊でもやせ衰えた姿でもなく、円満の相をしていた云々」と。

ダルマパーラ尊者より仏伝とは異なる太子の姿との抗議があったが、右方に隣接して描いた満ち足りた成道の仏陀と対照的になるように、6年間の苦行後の世俗を超えた悟りの姿に描いたのである。


6.降魔成道(ごうまじょうどう) 大下絵

ピッパラ(菩提)樹の下に座して、太子が悟りの座につこうとしたとき、天界にいた魔王マーラはそれを知って三人の魔女を遣わして太子を誘惑しようとしました。薄衣(うすぎぬ)の羽衣をまとい瓔珞(ようらく)の花で美しく着飾った艶やかな魔女たちは、あらゆる媚(こび)の限りを尽くして、優しく舞い、麗しく歌いました。

また魔王は1億8千の鬼神を集め、弓を放ち、剣を閃(ひらめ)かせて押し寄せました。獅子や熊、牛や馬の首を付けた悪鬼夜叉(やしゃ)らが太子に迫りました。

しかし、太子にはことごとくこれを退けて、明けの明星が輝く時ついに悟りを開かれ、仏陀(ブッダ)、釈迦牟尼世尊(釈尊)となられました。

【香雪のことば】

樹下石上の仏陀を中心として渦巻く怪しい雲の中に攻め寄せる悪魔等を描いた。仏陀の印相(手の形)は多くの前例を破りアジャンタ石窟の降魔像の場面の如く、掌(てのひら)を見せて膝に垂れる(手を伏せて甲を見せるのを通例とするも)。完成作ではダルマパーラ尊者の力説に余儀なく変更せられたが、この大下絵では、通常の降魔印のごとく、手のひらを伏せて甲を見せている。三魔女は白色を可愛(かあい)に、黄色を欲染(よくぜん)に、黒色を能悦(のうえつ)に、これ現世界三大人種の色別を象徴するものである。


7.五比丘(びく)、サールナート(鹿野園(ろくやおん))における迎仏(げいぶつ) 大下絵

ベナレス郊外のサールナート(鹿野園(ろくやおん))にて、ウルベーラの林で太子を捨てた5人は、遥かに釈尊を見て、無視することを互いに約束しましたが、釈尊が近づかれると約束を忘れて、鉢と衣を受け取り、座を設け、洗足の水を供えました。釈尊はこの地で最初の説法をされ(初転法輪(しょてんぼうりん))、これにより最初にコンダンニャ、続いてワッパ、パッティヤ、マハナーマ、アッサジが悟りを開きました。

【香雪のことば】

釈尊が出家したとき、父王はこれを憐れんで、領内の釈迦族の者より5人を送って随順させた。釈尊はこの5人と共に6年間の修行を行ったのである。

釈尊は悟りを開かれた後に、座を立って、先ず共に修行していた五比丘を済度しようと鹿野苑にやってこられた。姿を表された釈尊の威徳に驚異して、五比丘が各々座を立って、釈尊の御足を洗い、鉢を執る姿を描く。

木の下の修行僧の1人に亡くなったダルマパーラ師の風姿を重ねて描いた。


8.ビンバサーラ(頻婆娑羅(びんばしゃら))王の教化(きょうけ) 大下絵

釈尊は王舎城の西門の城外にある竹林園(杖林園(じょうりんえん))の林でマガタ国のビンバサーラ王とその妻ヴァイデーヒー(韋提希(いだいけ))夫人に法を説かれました。

王は「世尊、私はかつて王子であった時、五つの願いを持っていました。『私は王として灌頂(かんじょう)せられたい、私の領国に仏が顕(あらわ)れて頂きたい、私はその仏にお仕え申したい、その仏より法を聞きたい、解りたい』。今やこの願いのすべてを成し遂げました。私は世尊と法と僧伽(そうぎゃ)に帰依いたします。」と申し上げ、釈尊は黙然としてうなずかれました。

【香雪のことば】

竹林園(杖林園)の仏のすわる座の上に、釈尊は転法輪(てんぽうりん)の印をむすぶ。(下絵では釈尊は描かれていない)その法座を囲んでたくさんの仏弟子が説法を聴いている。法座の前方にビンバサ一ラ王は美しいお妃と共にすわり、百官も付き従い説法を聴いている。


9.阿難(あなん)と村の乙女 大下絵

阿難尊者はマータンガー(摩登伽)村で水を汲む最下層の旃陀羅族(せんだらぞく)の若い娘に水の供養を求めました。娘は「自分は賤(いや)しい素性のものです」と戸惑うと、阿難は「私は出家の身です。心に貴賤の上下の差別はつけません」と言い、再度望んで、水を飲み立ち去りました。阿難の気高さ、優しい言葉に恋慕の情が起こった娘の願いを受け、呪術に通じる母親は神々に祈り、阿難尊者を誘い寄せましたが、阿難は一心に釈尊の力を念じて耐えその力によって、魔法から逃れました。ところがその後も娘は、托鉢する阿難陀に付きまとい離れません。

困り果てた阿難は再び釈尊に相談すると、釈尊は娘を呼び、人間の愛欲の煩(わずら)わしさと不浄を説かれました。娘は悟りを開き、マータンガー比丘尼と呼ばれました。

【香雪のことば】

この画題を特に選んで描いたのは、仏教の無差別と一視同仁(いっしどうじん)(差別をせず、人を平等に見て思いやりを持ち待遇すること)を説くためである。ガンジーが奴隷族のハリジャン解放運動の盛んなる今日、この思想はすでに2500年前にあったことを示す一例として挙げたのである。ニーム樹下で渇きを覚えた阿難は僧衣正しく乙女の水を鉄鉢に受けている。乙女は手を振りながら、顔を覆ったサリーの陰より気高い阿難の眉目(びもく)を盗み見して、いつしか恋心にせかれて止まらないところである。


10.涅槃(ねはん) 大下絵

釈尊はクシナガラ、マッラ族の城外の沙羅双樹(さらそうじゅ)の林で、右脇を下に右手を頬に当てて静かに涅槃に入られました。釈尊の足元で合掌するのはマッラ族の王侯貴族、仏足に臨んで泣く齢百歳の老女、異教徒。釈尊の眼前で悲しみに暮れる阿難(あなん)。

釈尊の頭の後ろ上方で右手で指弾(しだん)しているのはマハーカッサパ(大迦葉(まかかしょう))。ある比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった。思い通りのことが出来て良いではないか」と放言したことがきっかけで、マハーカッサパが世尊の教説(法と律)を正しく記録することを思い立ち、仏典の編纂会議(仏典の結集(けつじゅう))を行いました。

【香雪のことば】

釈尊は沙羅双樹の間に体を横たえ、全面に阿難は薬瓶を擁して悲しみ泣いている。その上半身には比丘衆が集まり、端座し、入涅槃の釈尊を見守っている。背後に立つ大迦葉は二本の指を立ててこの静寂を破る。下半身には国王を始め優婆塞(うばそく)(男の在家信者)や優婆夷(うばい)(女の在家信者)その他の道俗(仏道に入っている人と俗世間の人)が集まり号泣する様を描き、仏足にはビサーカ(鹿子母(ろくしも))が銀髪を乱して泣き入る。相集まる道俗は実に八十五人の群衆にして、全面を曇った色調に、僅かに金色を配して大いなる悟りを線と色との濃淡の違いで表現しようと精進したものである。


野生司香雪画伯の作品について 〜目次〜

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野生司香雪画伯とは 〜目次〜

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野生司 香雪(Nousu kousetsu)画伯展へぜひお出かけを

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2023年長野市仏教会主催のセレモニー予定

法妹の装身具や衣裳の展示や「法妹」の舞も

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オープニング

5月12日(金)14:00開場

北野カルチュラルセンター1階

オープニング法要

大本山永平寺貫首南澤道人不老閣猊下 御親修
「釈迦牟尼仏慶讃法要」ならびに
「野生司香雪画伯五十回忌法要」

 

■記念講演「野生司香雪の生涯と仏伝壁画」
元徳島文理大学非常勤講師 溝渕茂樹氏

長野市仏教会のイベントを2023年5月に開催する北野カルチュラルセンター

5月13日(土)11:00~

北野カルチュラルセンター3階

■記念講演
「釈尊絵伝」~野生司香雪画伯の世界〜
平等院神居文彰住職

長野市仏教会のイベントを2023年5月に開催する北野カルチュラルセンター

5月14日(日)11:00〜,13:30〜

北野カルチュラルセンター1階

 

■「法妹」藤間千勢津社中

令和5年、長野市仏教会創立81周年記念、そして、仏都花まつり第101回記念としてのイベント「野生司香雪画伯展」へぜひお出かけください。

※各催事には混雑緩和の為に定員がございます。事前予約は行わず当日受付になります。(2023年5月12,13,14日)