トップページ > 仏さまのおしえシリーズ >

5.悲しみを乗り越える

 「痩せ蛙負けるな一茶是に有」などの俳句で知られる江戸時代後期の俳人、小林一茶は信州信濃の出身で、私たち信州の自慢の一つです。庶民的な作風の中に、小さな生き物に目を向けながら、か弱き者や陽の当たらない者に寄り添い味方する句が多いからか、親しみを込めて「一茶さん」と呼ぶことが多いようです。そんな一茶に、

  やれ打つな蝿が手をすり足をする

という句があります。蝿はばい菌を運びます。ですから蝿を始末するのは、衛生上、致し方のないことなのですが、叩き落とそうかと狙いを定めていると、蝿が手をすり足をする。もちろんそれは蝿の習性です。でも、その姿が「どうか叩かないで下さい」と合掌しているように見立てたのでしょう。いかにも一茶らしいユニークな観察眼ですが、じつはその二年ほど前、一茶は

「腕の蝿手をするところを打たれけり」

と詠んでいます。蝿が合掌するとは見立てていなかったのです。「打たれけり」から「やれ打つな」。はたして一茶に、どんな心境の変化があったのでしょう。

 一茶は晩婚で、齢五十を過ぎてから子を授かりました。しかし、最初の子はすぐに亡くなってしまいました。二番目に授かった子は女の子でした。「さと」と名づけました。この子は順調に育ちました。  一茶に

「目出度さもちう位なりおらが春」

という句があります。これは、春に生まれたさとと一家三人で新年を迎えられた喜びを、「これが人並みの幸せなのか」とかみしめながら、照れ隠しも含めて少し控えめに「中位」と詠んだのです。
 その年の四月、一茶は

「蝿追ふも又たのしいか子の寝顔」

と娘とのひと時を詠んでいます。さとが満一才を迎えたころでしょうか。寝ているさとの周りをしつこく飛び回る蝿を繰り返し追い払うようなことにも、一茶はささやかな幸せを感じていました。

 「腕の蝿手をするところを打たれけり」

は、その五月に詠んだ句です。「打たれけり」と詠む背景には、可愛くて可愛くて仕方のない娘の世話をする一茶の親心がうかがえます。なのに、六月。さともまた、亡くなってしまいます。にわかに天然痘が流行り、あっという間に多くのいのちを奪っていったのです。「この世の無常」「いのちはかなし」とは重々承知であっただろう一茶も、きっと耐え難い悲しみに襲われたことでしょう。  ところでお釈迦さまの教えに「目に入った者も、目に入らなかった者も、遠くにいる者も、近くにいる者も、もう生まれている者も、これから生まれてこようという者も、生きとし生けるすべての者はみな幸せであれ」(『スッタニパータ』第一四七偈)というお言葉が伝えられています。

 とても大きな生き物も、小さくて肉眼では見えないような生き物も、遠すぎて縁のない生き物も、遠い未来に生まれてくる生き物も、強い者も弱い者も、人間も動物も昆虫も植物も、お釈迦さまは「いのち」ある者はみな幸せであれと願われます。もちろん誰であれ幸せでありたいと願っているはずです。いわば本能です。その、ごく当たり前の願いを、お釈迦さまは、なぜあえて教えの言葉としたのでしょう。
 我が子を失った一茶は、我が身に背負った悲しみと否応なく戦ってきたはずです。もうこれ以上、苦しみたくもないし悲しみたくもないのです。自分だけではありません。他人が苦しみ悲しむ姿も見たくないのです。
資料によれば、「やれ打つな」と詠んだのは、娘を失った二年後の六月ではなかったかと思われます。たぶん娘の三回忌に当たるころでしょう。かつて娘が昼寝していたあたりに蝿が止まったのでしょうか。二年前には「打たれけり」と詠んだ一茶も、たとえ蝿であれ、いらぬ殺生は己の悲しみを深めるばかりと思い至ったのでしょう。一茶は、いつしか自分自身の中の慈しみを探し求めていたのです。だからこそ「やれ打つな」と詠んだのです。悲しみの中にあっても慈しみの心が生きる糧になる。「やれ打つな」の一句には、そうした希望が読み込まれていると思うのです。

 人は、大きな悲しみに見舞われた時、あえて他人に優しくしようとしなければ、その悲しみに押しつぶされてしまう生き物ではないでしょうか。「この世の無常」「いのちのはかなさ」は誰もあらがうことのできない道理です。悲しみは、いつも私たちと隣り合わせにいます。すべてのいのちを大切にせよ、「幸せであれ」とお釈迦さまが慈悲を説くのは、慈しみが悲しみを乗り越えていく力になると知り尽くしていたからだと思います。
 お互いを思いやり、生きとし生けるものすべてのいのちを慈しみましょう。一輪の花に足を止め、鳥のさえずりに耳を澄ませてみましょう。優しい言葉、眼差し、仕草、笑顔を心がけましょう。やがて、それが慈しみの心を育て、悲しみを乗り越えていく道になるのです。     

(袖山榮輝)    


次のおしえへ 「絆」と「菩薩のこころ」
このページの上へ